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映画の感想つらつらと。

『Mommy / マミー』抑圧と飛翔、そして転落。

Huluで視聴。

※ネタバレあり

 

Mommy
監督:グザヴィエ・ドラン/2014年/カナダ

 

ADHDを持った青年・スティーヴとその母親・ダイアン、そして向かいに住んでいる元教師・カイラの物語。

 

本作が2014年、つまり今から10年ほど前に制作された映画であることを念頭に置けば作中の最後について特に違和感を抱かず見終えることができたかもしれない。しかし2023年の今日現在にこのラストを見ると全てを投げ出してしまったかのような幕引きに多少の困惑を覚える。

 

 

最も魅力的だったキャラクターはカイラだ。主人公である親子を差し置いて最も大きな変化を見せたのが彼女だっただろう。2年ほど前から言葉が思うように出なくなってしまったカイラ。彼女はそれが原因で高校教師の仕事を休まざるを得なくなってしまう。

 

そしてどうやら家庭環境もうまく行っていないらしい。システムエンジニアの夫とは喧嘩ばかりで一人娘とのコミュニケーションにも苦労している。障害のせいで仕事を休まなければならない上に、料理や子供の世話は夫に奪われているようにも見える。家庭には自分の居場所がない。誰も彼女を受け入れてくれないのである。

 

そんな息苦しい生活を送っていたカイラにとって、向かいに住むスティーブとダイアンの仲睦まじい(そして時に破天荒な)姿は「理想の家族」として映っていただろう。そしてそんな理想の家族の内に入れてもらったことがは彼女にとってこの上なく幸せな体験だったであろうことは彼女の姿を見れば想像に難くない。

 

 

「mommy」とは母親を指す言葉である。「mother」よりは砕けていて、より親しみが感じられる言葉だ。スティーブは自分の母親にこの「Mommy」と書かれたネックレスを(店から盗み)プレゼントする。

 

そこにはきっと「愛しの母ちゃん」という意味が込められているはずだが、一方でダイアンを母親という役割に縛り付けるアイコンでもあった。彼女とスティーブの関係性は一般的な親子関係とは異なっているだろう。時に親密であり、気に触れることがあれば構わず攻撃する奔放な彼を、ダイアンは母親として面倒を見なくてはならない。「Mommy」のネックレスでダイアンを縛るスティーブの無邪気さがそのまま彼女への抑圧と息苦しさに繋がっている。

 

「母親」という言葉は女性から様々なアイデンティティを奪ってしまう言葉でもある。ダイアンはライターの仕事をしていたパワフルな性格の持ち主で、隣家のカイラは高校教師で現在は吃音症に悩まされていた。しかし2人は子供を育てる母親という一面もある。ダイアンはスティーブが施設から戻ってきた途端にシングルマザーとして母親業に忙殺される毎日に襲われ、カイラは仕事ができず1日中家にいるにも関わらず誰からも相手にされない孤独を抱えている。前者は母親であることを強制され、後者は母親でありながら家族との関わりを断絶されられていることが自身を埋没させる原因になっているように見える。

 

もちろんそれはあくまで一つの側面であって、母親であるということがダイアンやカイラの幸せに繋がっていたことも事実だろう。特にカイラはダイアンたちの家に通うようになりスティーブを通じて母親らしさを手に入れている。それは誰かに受け入れられたという充足感であり、自らが母親であると実感できる瞬間であった。

 

こうした母親をめぐる幸福と苦しみは本作でもとりわけ印象的な1:1という窮屈な画角に象徴される。明らかに窮屈なその画面は圧迫感と緊張感を与え、登場人物の抱える悩みを映し、彼らの心情の機微を逃さずとらえていた。彼らの幸福と呼応するように伸び縮みするフレームは感情を移す鏡のようでもあった。

 

 

息子を施設に預けている間になんとか生活をうまく回していこうと考えていたダイアンの元に突如帰ってきたスティーブ。1人の時間を失ったダイアンは息子を保護する母親としての務めを全うする日々。発達障害児に関する新法が成立したことで公共の助けを求めることも許されない。おまけに息子は施設で事件を引き起こし訴訟にまで発展していた。カイラとの出会いは唯一の救いとなったが、生活が良くなる兆しはそれでも見えなかった。

 

息子を育てることに限界を感じたダイアンは遂にスティーブを再び施設に預ける選択を取る。彼女は彼を預ける目前、彼の将来を思案した。彼の成功と輝かしい未来を思う景色は焦点が合わず朧げである。それはやがてはっきりとした輪郭を帯びる実現可能な未来だろうか、それとも息子の成功を心から信じることができない不安の表れだろうか。母親であろうとも愛する息子の輝かしい将来を期待することは難しい。

 

そして、別れの時は突然訪れる。家族の愛を引き裂くようにして行われたそれは何を残したか。開放感か、後悔か。嵐が過ぎたような静けさは平和であることを意味しているわけではない。ダイアンもカイラもスティーブの存在によって母親でいることができた。スティーブが2人を母親にしてくれていたのだ。彼を通して育まれた繋がりは、彼がいない今はもはや機能を果たさない。空中分解するようにして散った一つの「家族」は一抹の幸福にすぎなかった。以降一才の関わりを持たなくなってしまった2人の母親。生々しい真実がダイアンの心をより深く傷つけていたはずだ。

 

施設に保護されたスティーブ。体を拘束され自由を奪われた姿は目を逸らしたくなる光景である。ダイアンがこれを見たらどのように感じるだろうか。彼を送り届けたからと言って全てが解決するわけではない。看守の一瞬を突き、飛び出そうと走り去るエンディングは何を提示したかったのか。それは抑圧に抗う青年の勇気を讃えるものなのだろうか。更なる悲劇の始まりなのだろうか。いち観客としては登場人物の誰もが救われないような幕引きは望むものでないが、本作はそう示しているように見えてならない。そしてそれはともすれば感動を助長するような、装置としての役割を持たせているように捉えられてもおかしくはないと私は感じた。

 

例えば『ブルー・バイユー』は扱うテーマは異なるものの社会派映画としてよくできた作品だ。情に訴えつつも感動だけでは終わらせない、流した涙にさえもふと立ち止まってその意味を考えさせるような強固なメッセージが配置されている。10年という時間が映画や観客を育てているのかもしれないが、本作にもそうした強さが欲しかったというのが正直なところである。