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映画の感想つらつらと。

『PLAN75』扇状的な問いに対する答えとは

ディストピアと化した日本社会に未来はあるか。

 

※ネタバレあり

 

PLAN75
監督:早川千絵/2022年/日本

 

この映画が訴えるのは目の前の問題を自分事として捉えられているかということだろう。超高齢化社会の進む日本で施行された生死の選択権を与える制度=PLAN75。登場する4人のキャラクターがいかにしてこの制度と向き合うかを描いている。

 

コールセンターで働いていた成宮は相手の顔が見えないからこそ表層的で業務的な行いを徹底できた。ひとたび利用者と会った瞬間、電話口で応対していた相手は紛れもなくこの世に生きる一人の人間であることを強く実感したはずだ。自分のしてきたことがどれだけ恐ろしいことだったか理解し後悔しただろう。震える声で退会をそれとなく促す姿はもはや傍観者でいられなくなった彼女の悲痛な叫びにも聞こえる。

 

市役所職員のヒロムはプラン75の申請窓口を担当していた。窓口で応対する好青年に写る姿も病室から叔父の亡骸を持ち逃げする姿もどちらも彼の本当の姿だろう。叔父に会うまでの彼は自死の選択がどういうものか分かっておらず、身内に利用者が存在して初めてその真意を理解した。

 

主人公のミチは高齢者でありながらホテルの客室清掃員として働いていた。プラン75を利用し潔く命を断つつもりでいたが、病室の隣のベッドで人が死んでゆく様を目にして我に返る。制度の利用者ですら、自ら死を選ぶことの問題に気付けなかった。最後の最後で過ちを自覚し、すんでのところで死を逃れた。

 

フィリピン人のマリアは娘の命を助けたい一心でプラン75の関連施設で働く。そもそも介護施設で働いていた時点でこの国の介護者不足を象徴していることを痛感する。以前から高齢者を相手にしていた彼女でさえも選択死の制度の問題には最後まで気付くことがなかった。選択死を受け入れた利用者の遺留品の回収をするマリア。偶然にも大金の入ったバッグを見つけ持ち去る彼女はどこか嬉しそうな表情を浮かべている。自分とは関係のないことだから、あるいは自分の国ではないから目の前の問題を見過ごしてしまっている。

 

本作で印象的なのは対面することが当事者意識を芽生えさせる契機となっている点である。 顔を合わせるということは相手の存在を認知することであり、自分の存在を認知されることだ。反対に、顔を見られていないからこそ悪事を働かせたり、目を逸らすことで責任を放棄することも起こってしまう。自分という存在を認知されることは当事者意識をもたらすことに繋がり、逆説的に当事者意識のない者は誰にも気付かれない「安全圏」に隠れている人だということだ。

 

個よりも全体を尊重する日本の国民性と、現代のネット社会がもたらした潜在的な責任放棄の意識は、そうした見て見ぬふりの状況を生み出しているだろう。 孤独死。老々介護。足りない生活費。足りない福祉。足りない後継世代。 超高齢化社会と呼ばれて久しい日本社会。数々の問題が山積する中、生死の選択権を与える制度は国の救い手となれるのだろうか。

 

答えは否だ。議論の余地すらない。誰一人として生きる尊厳を侵されていい人間などいない。本来すべきなのは高齢者を切ることではなく、すべての人間が満足に生きられる社会を作ることである。生産性がないとか、お金が掛かるからとか、そんな理由で奪われていい命のはずがない。そんな答えの分かりきった問いをこの映画は投げかけている。

 

だが映画に登場するキャラクターは皆自分事となって初めてその間違いに気付いた。望むのは身内が体験するしないに関らず間違いだと気付けることである。だが、それすらも難しい社会であれば、初めの一歩として身内という糸口があるのかもしれない。そうしたことを案に示しているのかもしれない。

 

映画のラストは施設から抜け出したミチのカット。登る朝日を浴び、歌を口ずさむ彼女。これでいい。これでいいのだ。何の意味も持たないようなこの時間こそが彼女の生を肯定する。一見確信を突いたようなセンセーショナルな問いかけを見事に一蹴する力強さがある。社会に蔓延る歪んだ正義と戦い続けなくてはいけない現実にやるせない気持ちを感じつつ、そうした愚問を振り払う清白な結末に勇気をくれる。


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