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映画の感想つらつらと。

ダレンの言葉が胸に刺さる『アントマン&ワスプ:クアントマニア』

キャプテンアメリカ以上に常時スーツ着用の主人公作品も珍しい。敵も味方も仲良くメットをチャカチャカしている映画。

 

※ネタバレあり

 

Ant-Man and the Wasp: Quantumania
監督:ペイトン・リード/2023年/アメリ

 

本作はMCUフェーズ5の第1作目に位置付けられる。アントマンシリーズの3作目にして強敵・カーンが本格参戦する舞台でもある。マルチバースサーガと銘打たれた戦いもいよいよ始まりということだ。

 

私が本作で最も楽しみにしていたのは征服者カーンの登場だ。ドラマ「ロキ」に登場した在り続ける者が守護していた神聖タイムライン。その崩落によりマルチバースが解放され遂に征服者が出現した。作中では来たるインカージョンの発生が示唆され、更なる混沌が訪れるであろう今後に期待が高まる。

 

しかし肝心のカーンは想像していた程の強さを感じられないまま、まさかの退場。サーガを代表するヴィランとしての強さを見せたい一方で、個々の作品の物語はきっちり着地させたいというもどかしさを感じる。カーンの強さが自身の肉体なのか未来の技術なのかいまいち判然としなかった部分も釈然としない。

 

本作で量子世界を我が物にしてたカーンが今後登場するのかは断定できないが、彼の討伐により別次元のカーンたちが襲来してくることは予想できる。エンドクレジットシーンでは「ロキ2」と見られる場面が公開され、ロキとメビウス、そしてカーンと見られる男が登場。シーズン2のヴィランは彼と見て間違いないだろう。恐らく以降の作品ではこのように様々なバージョンのカーンをヴィランに据えた物語が多数公開されるのではないだろうか。

 

ここで私が懸念しているのはMCUという舞台の矮小化である。インフィニティストーンをめぐるサノスとの長きにわたる戦いを終え、フェーズ4を皮切りにMCUマルチバースへと舞台を移した。複数の次元が複雑に絡み合い、夢物語と思えるような展開が今も続いている。「ロキ」で登場した変異体という概念は「マルチバースオブマッドネス」でキャラクターのあり得た可能性という形で展開させ「ノーウェイホーム」にて夢のクロスオーバーへと発展させた。マルチバースというのは同一キャラクターの別種の存在が物語のベースになるということだ。

 

ここに自らが抱えるジレンマが存在する。それは無数の次元を手にしたことが同じだけ世界が広がったように聞こえるが、実際は「マルチバース作品」という画一的な物語に収斂してしまうのではないか、という課題である。

 

3人のスパイダーマンの共演という禁止カードを早々に切ってしまったMCUが今後それを超えるような作品を生み出せるのだろうか。マルチバースサーガは丸々2フェーズ分残っている。別バージョンのキャラクターが現れるだけでは既に観客の期待を超えることはできない状況にあるはずだ。

 

上のような問題はマルチバースサーガのメインヴィランであるカーンについても同じことが言えるだろう。つまりこれから私たちの前に立ちはだかる何人ものカーンたちは誰を取っても「カーン」以上でも以下でもない、その度に衣装を変えただけの形骸的なヴィランになるのではないか。そうした不安がどうしても残るのだ。

 

ドラマ「ロキ」では在り続ける者を殺したことによる征服者カーンの登場を示唆。「クアントマニア」ではそのカーンを倒したことで更なるカーン集団の襲来が期待される。倒しても倒しても現れる強敵。それは言い換えれば力による勝負では決着が付けられないということを予感させる。

 

「エンドゲーム」でアベンジャーズは総力を結集させることでサノスに勝利した。それまでに登場した全てのキャラクターがアッセンブルした最終決戦はクロスオーバーが魅力のMCUが到達できた局地と言えるものであっただろうし、ある意味でそれは旧来の勧善懲悪の考えに基づいた着地だったと言える。以降のフェーズ4において「エターナルズ」では戦いから降りる者の存在を描き、「シーハルク」では超人能力を持つ者に戦いを強制する社会に対して一石を投じた。

 

また「ワンダヴィジョン」ではワンダがスカーレットウィッチという闇の魔女への覚醒が描かれ、「ロキ」はそもそもヴィランであるロキがヒーロー的な立ち回りをする作品だった。さらに今後「エコー」や「アガサ:ハウスオブコヴン」「サンダーボルト」などヴィランが主役の作品が多数予定されており、それまでの善対悪という単純な二項対立だった関係性も緩やかに変化している。

 

以上を総合すると次のアベンジャーズ作品で「エンドゲーム」のような全員集合とは異なるアプローチの作品になるというのが私の見解だ。いくつかの小さなグループがそれぞれカーンと戦い(文字通りの戦いを繰り広げるのかは疑問だが)、勝利を収めるのではないだろうか。

 

ただ今回の映画で個人的にハッとさせられた考えがあった。それは無数の自分が存在する世界の中で私が私であると言えるものは何か、という価値観だ。  「アントマン1」のヴィラン、ダレン・クロスことイエロージャケットはアントマンに敗れたのち量子世界へ姿を消した。敗北から一転新たな姿を手に入れた彼はモードックとして生まれ変わりカーン直属の兵器としてその務めを果たしていた。量子世界で再会したスコットやハンクは一様に彼をダレンと呼び、それを訂正するモードックの姿が印象に残った。終盤ではキャシー抹殺の命を受け彼女を追い詰めるが返り討ちに遭う。こてんぱんにされた彼が言い放った一言。「俺は何になれば良かったんだ」

 

私はこの言葉が意外にも刺さった。可能性の数だけ無限に増殖するアントマン、ワスプ。次元の数だけ存在する凶悪カーン。自分ではない自分が存在する世界において、自分が自分たらしめるものとは何か。自分は何者なのか。どのアントマンも(アントマンにはならずサーティワンの店員を続けていた?スコットも)娘を助けたいと願う気持ちは同じだった。それはスコットを定義づける信念である。娘にとってのヒーロー、父親であり続ける姿勢。

 

無限の可能性に満ちた世界、マルチバース。一癖も二癖もあるこの食材を後続の作品がどう上手く料理できるか見ものである。そして同じく厄介なカーンという曲者を活かすことができるかどうかでこのマルチバースサーガの勝敗が決まるだろう。今のところ部が良さそうには見えないが果たして…。


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