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映画の感想つらつらと。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』愛で全てを抱きしめて

あり得たかもしれない可能性への後悔と感傷。 あり得るかもしれない可能性への期待と諦観。 そして、今ここにある私の人生の再肯定。

 

※ネタバレあり

 

Everything Everywhere All at Once
監督:ダニエルズ/2022年/アメリ

 

本格マルチバースをモチーフにした映画がMCU以外の、それも単発の作品で出るというところから私の期待はとても高かった。本国公開からおよそ1年のラグを経てついに日本でも公開された『エブエブ』。この『エブエブ』って略し方が安い感じに聞こえてあんまり好感を持てないのだが、実際毎回『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とフルネームでタイプしてると指にくるし何より読みづらくて仕方ない。本国ではイニシャルを取って『EEAAO』なんて記事では表記されたりインタビューで口にされている。一方日本語記事では『エブリシング〜』みたいに省略してあるケースも見られた。それでも広告で『エブエブ』と銘打たれた訳なので、こちらのブログでも『エブエブ』と表記していこうと思う。

 

おもちゃ箱をひっくり返したような物語

さて本題に移ろう。この映画を観た人なら分かるだろうが、『エブエブ』を一言で表すとしたらどのように形容できるだろうか。マルチバース、カンフーアクション、お下劣コメディ、家族の不和。本作では実に多種多様な要素が絡み合っている。それらをまとめて端的に言い表すのは正直言って困難だ。しかしそうしたカオスに隠れている本作のテーマは愛情という非常に日常的で普遍的なものである。脳の許容範囲を大幅に超える鮮やかな色彩とマルチバースの複雑さに圧倒しつつ、最後は優しさでストンと落とす。単純さと複雑さの往来が小難しい世界観をとっつきやすくしていてとても楽しめた

 

 「日常≠平凡」のエヴリン

主人公エヴリンの日常は波乱に満ちている。経営するコインランドリーに監査が入り税金の申告を迫られている。肝心なランドリーは機械も古く始終故障し客に呼び出される始末だ。夫のウェイモンドは優しいが優柔不断で頼りにならない。故郷の中国からエヴリンの住むアメリカへやって来た父親ゴンゴンは頑固で介護にも一苦労。娘のジョイは元々反抗的な上に、ガールフレンドのベッキーを巡ってエヴリンと対立中だ。

 

マルチバースが到来する前からすでにエヴリンは仕事も私生活も全てが混沌としている。彼女はウェイモンドと駆け落ちし2人でランドリー経営を始めたが、希望に満ちた生活も長くは続かなかった。当時の熱も冷め切った2人の間には離婚話も挙がるほど。また娘のジョイとは恋人のジョイを巡って一悶着。当然ながら価値観の古い父親に同性の恋人がいるとは言い出せなかったエヴリンと、そんな彼女を前にベッキーの存在を否定されたと感じたジョイ。父親と娘の板挟みに悩まされる女性というエヴリンの立ち位置はありふれていながらも映画としてはあまり見たことがなかったので新鮮だった。「私の人生どこで間違えてしまったんだろう。」という彼女の後悔は後を立たない。誰もが一度は考えたことがあるであろうこの空想。「この人と結婚しなければ…」「女優になっていたら…」「カンフーの達人に出会っていたら…」考えるだけ不毛であるが、選択の数だけ無数に広がる「私」の可能性には到達できないからこその魅力に溢れている。そしてこの空想が後に現実のものとしてエヴリンの前に現れる。

 

カオス×カオス=?

国税局へ税金の申告に訪れたエヴリンの前に突如現れたのは別の宇宙から意識を飛ばしてきたアルファ・ウェイモンド。彼はエヴリンに会うなり助けを求める。それはあらゆる宇宙を破壊している巨悪ジョブ・トゥパキから世界を救うことだった。奴を倒す鍵は異次元に存在する「エヴリンたち」にアクセスし彼女らの力を借りることができる「バースジャンプ」。「最高にヘンテコなこと」をすることで、それを燃料エネルギーに変換し、より遠くの次元へとジャンプすることができるその力でジョブ・トゥパキと戦う使命を与えられたのだ。突如として世界の命運を握ることとなったエヴリンは更なるカオスへと足を踏み入れる。

 

マルチバースの表現手法

マルチバースは同時多発的に複数の、時に無限に近い数の次元が存在している世界観である。当然我々が見ることができるのは一つの映像しかないので多重感をどう演出するかは見どころのひとつと言える。そして本作は非常に工夫を凝らした映像で楽しませてくれた。

 

私が中でも好きなのはピニャータ(お菓子を詰めたくす玉型の人形)、落書き、石ころ、鉄板焼き料理人のバースだ。例えばMCUマルチバースオブマッドネス』のようにCGを凝らした未来的なデザイン(流体やポリゴンに変化するストレンジやチャベス)という方向性も勿論ありだと思う一方で、そうした考えに囚われていると『エブエブ』の石ころバースは出てこないのではないかと感じる。本作はインディペンデント系の制作としてMCUのような大所帯の体制でないことは明らかだが、表現方法に関して言えば彼らよりも優れていた印象だ。当然MCUはそれこそ同時にいくつもの制作を走らせているので単純な比較というのは出来ないかもしれない。ただ限られた範囲の中でどうすればマルチバースを魅力的に映すことができるかという課題と真摯に向き合っているように見えたのである。

 

「バースジャンプ」という設定も見事だ。異なる次元そのものを見せる時は衣装や装飾、映像の画角を変えることで説明できるのは想像し易い一方で、能力トレースの際は外見がそのままなので見た目では判断がつかない難点がある。声色や仕草で違いを見せる表現もある中で最も唸るのは「バースジャンプ」そのものの仕組みだろう。次元の裂け目も特殊な魔法も必要ない。①イヤホンを耳にかけ②奇天烈な行動を取るだけで我々にマルチバースを認識させることに成功したのは正に演出の妙である。繰り返しになるが、全体を通して滑稽でありながら計算高い非常によく考えられた作りに感心しっぱなしだ。

 

無限大の可能性は無に帰る

「今日は何を着て出かけよう」「晩ご飯は何を食べよう」日常の些細な選択の積み重ねで私たちの人生は作られる。選択の数だけ人生の可能性は無数に広がり、時にそれは後悔という形で私たちを悩ませる存在にもなる。私も派手なだけで絶対に似合わない洋服を買っては全く着ないで後悔したり、雨が降る日に限って傘を持って出なかったことは日常茶飯事である。このような小さな後悔や「この人と結婚していなければ…」「夢を捨てずに諦めていなければ…」「こんな人生になるはずではなかったのに…」と誰もが一度は経験したことがある空想を『エブエブ』は具現化している。あらゆることがあらゆる場所でいっぺんに。マルチバースとはまさに可能性の世界の集合体なのである。エヴリンは数々の次元を転移し、それぞれの世界で活躍する自分の姿を目の当たりにしてきた。コインランドリーの切り盛りでは手に入れられない栄光と輝きに満ちていた。

 

世界の破壊を目論むジョブ・トゥパキもエヴリンと同じように幾多の世界を見て回った。しかし若く可能性に溢れた彼女がマルチバースを巡って抱いた感情は虚無だった。無限の可能性を秘めているからこそ一つしか選べない人生は無意味で無価値なものであるという結論。

 

選択する不安と選択した後悔に侵食されてしまったこの価値観は現代の若者にも通ずるものだと思う。サブスクで膨大な映画を観られるようになったからこそ、ハズレのない、ちゃんと面白い作品を取捨選択しようとする行動原理もこれに起因しているだろう。負の感情の連鎖に陥ったジョブは全てを無に帰さんと世界の破滅を企む。理解を超えた壮大な世界観に突き放されそうなところをエヴリンやジョブが抱いた高い共感性で引き留める。実に絶妙な塩梅である。

 

全てを優しさで包み込んで

バースジャンプを体得し強さを発揮していたエヴリンはジョブに目をつけられてしまう。何人もの刺客を送り、自身も無類の強さを見せつけるジョブと慣れないジャンプを駆使しながら果敢に立ち向かうエヴリン。収拾がつかなくなりそうなマルチバースの戦いは一転、ウェイモンドやエヴリンが振りまく優しさによって終着の兆しを見せる。

 

もしも別の世界に生きる自分の人生を覗くことが出来たらさぞかし楽しいものだろう。バースジャンプは異次元の自分に憑依し別の人生を体験することができる一方で、あり得た自分への執着や自身の人生に対する失望を生む危険性を孕んでいる。確かに過去に置いてきた夢や目標、つまり未来への可能性を持ち続けていた自分の姿は眩しく映るかもしれない。自分の人生を悲観的に見たり、足りないものばかりが目につくかもしれない。

 

だが私の人生はこの世界の私にしか持てないものである。ランドリーを営むエヴリンが映画スターにはなれないのと同じように映画スターのエヴリンはランドリーを切り盛りできないのである。無数に広がる可能性の中で唯一私だけが手にできる人生。楽しいことばかりじゃないし辛い時間の方が長いかもしれない。でも例えそうであったとしても、私にしか過ごせない人生を精いっぱい愛してあげようじゃない。マルチバースを辿ることで見えた「今、ここ」という特別。奇跡の軌跡とも言える私の人生を肯定してくれる優しさ。力ではなく愛をもって敵を制するエヴリンの姿に私もやられてしまった。

 

私は子供の健気な姿や純真さを見ると愛おしさで胸が苦しくなる。そうした演出に非常に弱いのだ。そしてこの映画のラストはまさに私のストライクゾーンのど真ん中を貫いてくるようなものだった。襲いかかる敵を次々と抱擁し優しさでノックアウトさせるエヴリン。滑稽な絵面ながらその内に込められたメッセージはハートフルで思わずほっこりする。

 

ラカクーニも同様だ。ラカクーニとは元々エヴリンが『レミーのおいしいレストラン』(原題: Ratatouille)を言い間違えたものだったが、彼女が一流シェフであるユニバースにラカクーニも存在していたなんて誰が想像できただろう!しかもラカクーニが捕獲された時に彼女が相棒のシェフに跨って彼を操る場面はベストシーンのひとつだ。他にもソーセージの世界でエヴリンとディアドラが愛を育む結末や、石の世界で崖から飛び降りたジョイを追いかけるように身を投じたエヴリンなど荒唐無稽なキャラクターも単なる見世物で終わらせず最後に必ず全員を救ってハッピーエンドを迎える展開が温かい気持ちになれてとても好きだった。

 

たしかに自身の居場所を見出せない家族の元から去ろうとする娘を擁する母親という構図は全員が賛同できるような終わり方ではないかもしれない。思慮に欠ける意見かもしれないが、無数の世界のうちの一つくらいは愛によって2人の関係が修復され幸せを迎えるエンディングがあっても良いのかなと思った。ガールフレンドのベッキーもゴンゴンに理解を得られたことは良い意味で予想を裏切る結末であり、そもそもジョイの怒りは母親に向けられているというよりは世界そのものに対するものであったように見えたので、エヴリンがそれを優しさで救い出したと見れば受け入れやすいかと思う。やはりラカクーニやソーセージ、石ころなどのマルチバースにおける笑いと愛情の掛け算によって生まれた「無茶苦茶だけど心に沁みるストーリー」の連鎖が全体の印象を底上げしている。

 

今という時間を大切に

最後に自分の経験談を持ってくるのもおこがましい話かもしれないが、この映画は私の人生観と重なることがとても大きかった。私は過去の自分の選択を肯定できるのは今の自分しかいないと考えている。例えば、大学を現役で合格したA氏と浪人する道を選んだB氏がいたとする。両者を比べたとき、その年の大学受験に限って見ればAの方が良く見えるかもしれないが、それはAがBより幸せな人生を送れることとは当然イコールでない。Bは後年に大学で優れた成績を収めるかもしれないし、社会に出て大成する可能性もある。つまり自分の選択の良し悪しはその瞬間では分からないし、その良し悪しを決めるのはこれからの自分の行動次第であるということだ。

 

私は大学に入学した時と社会人になるタイミングで思い描いていた理想と異なる現実にひどく苦しんだものだが、今ではそれらも険しい道のりの一部に過ぎなかったと思えるくらい現在の自分を取り巻く環境に満足している。ここで言いたいのは弱音を吐かずに努力しろということではなく、人生を変えられるのは「今の自分」しかいないということである。

 

世の中全てが楽しいものではないかもしれないが私の人生は私にしか描けないものなのだから精いっぱい愛してあげよう。そして自分と他人に優しくあろう。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は混沌とする世界に対して不変の愛を説く真面目な作品であった。幾多の選択の中で日々を過ごし時に選択を後悔しながら、それでも愛と優しさをもってより幸せな人生を愛していきたい。