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映画の感想つらつらと。

信じ、物語ることの危うさと可能性 『聖なる証』

我々は物語なしには存在しない

 

※ネタバレあり

 

THE WONDER
監督:セバスティアン・レリオ/2022年/イギリス、アイルランドアメリ

 

舞台は1862年アイルランド。ヨーロッパを襲った大飢饉から13年後のことである。人里離れた村では一切の食事を得ることなく生き続けている奇跡の少女・アナがいた。断食を続ける少女の真相を明かすべく、イギリスから1人の看護師エリザベスが派遣された。科学の知見から事態を分析する彼女は事態の真相にたどり着く。神の賜りは全くの嘘であり母親が秘密裏に食事を与え続けていたことが発覚した。同時に家族との接触を禁じていたことでアナの健康状態が急激に悪化し、命の危険があると警告した。しかし、地元の医師団はこれに反発。少女の奇跡を信じて疑わない。

 

私は特定の宗教を侵攻しているわけではないが、神の存在は否定しない。未曾有の事態に遭遇した時、当時の人々が神に救いを求めるのはさして不思議なことではないと感じる。まさにウイルスの脅威に支配された現在日常的に感じていることだが「信じる」という行為は時に非常に厄介なものである。信じる者にとっては信じたいことが真実であり絶対なのだ。どんな高度な技術も知見も信条の前には無力である。

 

そもそもアナが断食を始めたのには亡き兄の存在が関係していた。

彼女の兄は生前アナと許されぬ恋に落ちていた。二人が結婚したのち兄は病に倒れそのまま帰らぬ人となった。母親は兄の死の責任は妹にあると決めつけ、地獄に落ち罰を受けている兄を助けるため彼女に断食と祈祷を命令した。兄と交わした罪と兄を亡くした悲しみに暮れていたアナはこれに従った。自分の体がどうなろうと、過去の過ちを悔いるように祈りの約束を守り続けた。

 

少女を調査する看護師・エリザベスも同じく過去の悲しみにとらわれていた。産んだばかりの我が子が僅か数週間で亡くなり、それに続くように夫は姿を消してしまった。喪失に苦しむ彼女は毎晩、娘が履いていた編み靴を手に取りひと匙の酒を口にし、過去の幻影に浸っていた。そこには毅然とした看護師の姿はなく、恍惚とした柔かな表情を浮かべる母がいた。失った幸せの中に閉じこもる様だった。

 

断食を続けるアナは生命の危機に瀕していた。信仰に支配され食事をすることもできず、ゆっくりと死に向かっていく少女を救うためエリザベスはある提案を持ちかける。それは少女にアナとしての一生を終え、新しい人間として生まれ代わり一家から脱走することだった。安らかな眠りに着くアナ。再び目を覚まし名を尋ねると、少女はナンと応えたのである。盲信によって瀕死に追い込まれた少女に別人の物語を紡がせることで彼女の命を救った。そして記者のウィリアムの協力を得て国外へ逃亡。3人は一つの家族として新たな人生を送り始め過去の悲しみから解放されたのだった。

 

とらわれた籠の中にこもるのも外に出るのも根本は「信じる」という同質の行為なのではないか。行為の両面性が描かれている。

 

この映画には語り部が存在していた。度々私たちの前に現れては印象的な言葉を残した。

 

We are nothing without stories.

ー我々は物語なしに存在しない。

 

人間は物語を生み出さずにはいられない。それは神の存在や宗教の信仰といったことだけではなく、誰もが日常で体験しているはずだ。例えば志望校の入学試験に合格したとき、大切な人を失くしたとき、運命的な出会いをしたとき。本来は独立して存在しているはずのさまざまな事象を結びつけそこに因果を生み出してしまう。点と点を結べば線ができ、その線こそが物語である。これは人間の性であり尊い営みなのだ。

 

史実をベースとした宗教と科学の対立を描いたと思えば、次第に物語ることの危うさと可能性を説くまでにスケールを拡大させたことに感動した。


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