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映画の感想つらつらと。

これはあなたがもう知っている物語『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』

字幕版を鑑賞。

※ネタバレあり

 

The Super Mario Bros. Movie
監督:アーロン・ホーバス,マイケル・ジェレニック/2023年/アメリ

 

物足りない映画だった。何をやりたいのか、その意図が伝わってこない。「マリオ」の要素を詰め込んだ、事柄をなぞっただけのような表層的な作品だった。

 

特に私が残念に感じたのは、ルイージの扱いである。運動神経がよくなんでも器用にこなすマリオと比べてどうにも間抜けな弟は冒頭から兄の足を引っ張ってばかり。「文字通りスーパースターなマリオと、その弟」という意味での「スーパーマリオブラザーズ」なのだと読み取ってしまうほどにルイージの無才ぶりが発揮されていた。

 

私は配管工のシーンで「ああこれは、マリオと比べて不出来なルイージが物語のキーになるんだな」と思った。失敗ばかりのルイージが自分の不甲斐なさに悩むとか、兄のようになりたいと夢みるとか、反対にへっぽこな自分を尊重するとか、凸凹感こそがマリオブラザーズなんだと言い切るとか、「ルイージの存在意義」に関する映画なのだと直感的に感じた。なぜならこれは「スーパーマリオ・ムービー」ではなく「スーパーマリオブラザーズ・ムービー」だから。

 

でも実際は私の見当違いだった。早々にクッパに囚われたルイージは監獄の中でマリオの助けを待つばかり。二手に分かれてそれぞれに物語が展開されるとか、互いが兄弟のことをどう思っているとか、2人から見た「ブラザーズ」の認識の違いとか、そういう兄弟なりのドラマがあるわけでもなく、囚われたルイージはほとんど空気のような状態だったと言える。

 

別にルイージに劣等感を感じて欲しいわけではない。あの2人あってこそのブラザーズなら、そうだと言い切るメッセージ的な強さとそこに向かっていくアプローチが欲しかった。映画を見た後の2人の印象が「出来過ぎなマリオとちょっぴりドジなルイージの2人でスーパーマリオブラザーズ」それ以上でも以下でもないというのが心底残念なのだ。そんなのゲームやってればわかるよ!その先が知りたかったんだよ!

 

もし私の望んでいたものに対する回答がマンホールを盾にマリオを守るシーンなのだとしたら、それでは不足感が残る。確かにルイージの描写も決して全くない訳ではなく、幼い頃の回想場面でいじめっ子から身を守ってくれる兄の姿を輝かしく思う姿や(正直このシーンはベビィブラザーズを登場させたい以上の目的はなかったと思うが)、落ち込んだマリオにそっと夕食を運んできてくれる優しさが描かれている。しかしそのどれもが既存の印象の枠を超えないというか、役割に人物が動かされているような空虚な印象を受けるのである。クライマックスバトルでスターを取って無双するシーンも隣には必ずマリオがいて、やはりルイージは本当に設定という意味での「マリオの2Pカラー」以上の存在価値はないんだろうと、所詮マリオの添え物程度にしか見られていないんだろうと、落胆した。本作の中でマリオには弟を見つけ出す使命がある。ピーチは国を守る大義がある。キノピオ、ドンキーは彼らを支える勇気がある。クッパはピーチと世界をものにしたい野望がある。ではルイージには何があるか。そこに私はドラマを期待していたのである。

 

以上とは別の話で、この映画のリアリティラインも引っかかる点ではあった。リアリティなんて考える世界観じゃねーだろとツッコミが飛んできそうだが、一番わかりやすいところでいえば、ブルックリンに住む一般男性が自分よりも背丈のあるゴリラに蹴られ殴られしても平気なところが私にとっては妙にモヤモヤする箇所である。他にも、クッパの意に反したノコノコが火炎放射をくらってカロンになってしまうシーンや、マッドマックス的な装甲車に乗っていた青ノコノコが最後に青いトゲゾー甲羅となって自爆特攻する場面、反撃の一手に利用されたボムキングなど、「笑い」で済まして良いのかと思いとどまってしまうところがかなりあった。クッパ軍団に雪玉で対抗していたペンギン軍団ぐらいが個人的にはちょうど良い塩梅で微笑ましかったので、可愛い顔して残酷なことするキャラクターたちに正直引いてしまった。隣に座っていたおじいさんはめちゃくちゃ笑ってた。

 

さて、映画を振り返る中でマリオのゲームをプレイしていた頃を思い出してみた。 私が小学生の頃にニンテンドーDSが発売。同時期に発売されたのが「Newスーパーマリオブラザーズ」だった。私の中でマリオといえばこのゲームである。 巨大マリオの最強ぶりと、マメマリオの特別感。隠しステージのワールド4と6。L Rを押しながらスタートして登場するルイージ。本編と同じくらいやりこんだカジノゲームなどあげればキリがないほどに「Newスーパー」との思い出は尽きない。

 

こうして振り返ってみて発見した1つの気付き。それはマリオのゲームに熱中していた一方でマリオというキャラクターにはほとんど愛着がないということである。愛着というと個人の好みの話になってしまいそうではあるが、言い換えれば、「マリオやピーチに関心を持つようなストーリーってあっただろうか?」ということである。少なくともゲームの中でマリオのバックボーンやピーチ姫との関係性、クッパの企みなどは全く明示されない。ひたすらにステージを駆け抜け、ボス戦をクリアしたかと思えばピーチは次のステージに連れ去られ、追いかけ…の繰り返しである。裏を返せば、あのゲームの主役はクリボーやノコノコなどの障壁を避けながら左から右へ走り続けるプレイヤーであり、マリオやピーチそのものではないということである。難しいコースを攻略したり、隠されたメダルを探したり、ノコノコを蹴り続けて無限1UPする裏技に挑戦してみたり、ステージそのものを楽しむことがスーパーマリオの面白さなのだ。

 

だとすれば、この映画の構成も納得できる線が見えてくる。そもそもマリオたちに注意を向けるほどのストーリーは必要ない。大事なのはキノコ王国に仕掛けられた土管やドンキーコングとの決闘やレインボーロードであり、映画という大きなコースに設けられたいくつもの障壁だと言えるのではないだろうか。マリオたちがどんな人物であるかは一旦置いておいて、それよりも彼らが「プレイ」する多彩なギミックやトラップが面白くあるように設計しているのだとすれば、そういう意味では成功していると私も思う。

 

なぜなら本作でワクワクさせられた瞬間も決して少なくないからだ。コング王国の導入で爆走ライディングを見せる手下のゴリラは「Take on me」と相まった爽やかな笑いで良い。続くマリオたちが倉庫でカートを選択する場面では私たちが知るあの選択画面のようなガジェットが登場し、この映画によって「マリオカート」のプレイ体験に価値が還元されるような作りになっているのはさすが任天堂。これからはゲームで遊ぶたびにあのシーンが思い起こされるだろう。レインボーロードで敵のカートに飛び乗ったマリオが運転していたノコノコを踏みつけアイテムの緑甲羅にして反撃するシーンは要素の拾い方が上手で、一連の流れはとても鮮やかだった。ファイアフラワーなどの能力付与のシーケンスや能力を得たピーチやドンキーの姿も映画オリジナルの姿で見応えがある。総じてこれまでゲームで親しんだキャラクターやお馴染みの設定、つまり断片的な情報を映像という連続した媒体を用いて繋ぎ合わせたり補完するような試みが私には刺さった。

 

また本作におけるピーチのキャラクターも非常に良かった。私がプレイしていた「Newスーパーマリオブラザーズ」では終始囚われのヒロインにとどまっていた彼女が、映画では率先して前線に立ち、バイクを乗りこなし、アイテムを使った特殊アクションまでもこなすヒーローに生まれ変わっていた。「試練」のコースを鮮やかに突破しドレスをパラシュートのようにして柔らかく舞う姿や、クッパとの結婚式でアイス能力を手に戦う姿など、純粋にカッコいいと感じられる場面がたくさんあった。特にレインボーロードキノピオを救出するシーン、ホバーバイクのホバー解除、落下、キノピオ救出、カイト展開、飛行の流れが個人的には本作屈指の名場面だ。

 

心情よりも勇姿で、ドラマよりもアクションで魅せるこの映画には、キャラクターの内面などに目を向けなければ大変満足できる作品である。しかしそうなると、そもそもの設定であるブルックリンに住む配管工・マリオブラザーズという背景が丸ごとノイズなのではないかと感じるのだ。少なくとも私のプレイしたゲームには存在しない(そして知る必要もなかった)配管工の設定やピーチの出自などは映画によって付け加えられたキャラクターの造形を深める要素であり、単なるプレイヤーでしかなかった赤帽子の男に命を吹き込む画竜点睛なのである。その行為自体はもちろんあって然るべきものだし、むしろ映画になることの最大の意義だと思うので、やはり私の結論としてはドラマが足りないという一点に落ち着く。ゲームをプレイするだけでは見えてこなかったスーパーマリオブラザーズが見たかった。これに尽きるのである。 


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