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映画の感想つらつらと。

『ミツバチと私』男でも女でもなく、私へ。

※ネタバレなし

 

20.000 especies de abejas
制作年 : 2023年 / 監督 : エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン


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最近哲学に関する本を読んでいたこともあり、ふと自己という実体のない概念について考えに耽ってしまうことがある。それは映画を観ていても同じで、特に本作を鑑賞している間はそのことがずっと頭から離れなかった。

 

まず、肉体と精神(自己)というのは互いに独立した存在なのではないかというのが私の基本的な考えである。生物学的な性別というのは当然ながら男/女の2種類のみの存在に限定される。しかしこの事実は精神つまり自己の存在とは本来関係がないはずではないか。もちろん毎日目にする自分の肉体や社会のあらゆるシーンで振り分けられる男/女の区別は多分に自己の形成に影響を与えているだろうが、結局それらは外的な要因のうちに過ぎない。

 

男らしい、女らしい、というのは経験的な知見であり、対象の本質を突いているとは限らない。社会規範的に是とされるのかが優先され、多くの人が共有する「普通」の枠から逸脱しないよう努めることが好まれてきた。だからこそ精神上の性別は肉体と同様にきっぱり分けられるものだという考えはより強固になり、その前提を崩そうとする現実を受け止められない人々が大勢いる。

 

わたしは他の誰でもない「わたし」である。しかしそれは流動的であり簡潔に伝えることは難しく、男とか女とかはっきりと線が引けるものではない。肉体的及び精神的性別は「わたし」を形成する自己に従属するものであり、アイデンティティを表す要素は多種多様である。アイトールがココ、そしてルシアと名前を変えたことはその一例だ。さらにはルシアの母親が教職に就こうとしたり作品を捏造してまで芸術家としての面子を立てようと試みるなど社会における自身の役割を模索したことも本質的には同義であると言えるのではないか。(そのような意味でルシアとルシアの母は同じ立場にいる人間として、そしてルシアの祖母が2人のメンターとして描かれているのだろう)

 

ルシアにはニコという唯一の親友がいる。ニコは周囲の女友達がビキニを着てプールに入る中ひとり(幼いとはいえ)パンツスタイルを貫いたり、ルシアと精神的な面で共感するものがあったりと、自らのジェンダーについて考えている人物として描かれる。ルシアとニコは外見的特徴も細身に長髪とよく似ており、2人が並んでいると見た目からは肉体的な性別すらも判断できないと感じるほどだ。こうした光景はなんとなく自己という精神の独立性を示唆しているようにも見え、2人が親しくなった背景も窺えるのではないかと感じる。