IMAX 3Dで鑑賞。2020年春頃『ブラックウィドウ』公開前に発表された特別映像で明かされたブラックパンサー第2作=ワカンダフォーエバーのタイトル。あれを見た時からずっと公開を待ち望んでいた。前作主人公が不在の中、物語はどこへ向かうのか。そんな期待を膨らませて劇場へ足を運んだ。
※ネタバレ有り
BLACK PANTHER WAKANDA FOREVER
監督:ライアン・クーグラー/2022年/アメリカ
しかし実際に体験したものは、誰も望まない方向へ物語が転んでいくことに対する恐怖と不安。こんな気持ちにさせるMCUは後にも先にも無いのではないだろうか。
止まらない争いの連鎖。時間をかけて築いた信頼も崩れる時は一瞬だ。私たちは悲しいことに今現在そうした望まない争いを目にしている。現実世界で苦しむ姿を間近にしているからこそ、フィクションの世界でも同様の争いが行われることに対して非常に悲しい気持ちを抱いた。何よりもエンターテイメントとして観客をこんな気持ちにさせて良いのだろうかとすら思った。
ではエンターテイメントとしてどう見せることがよかったのだろうか。私は観客側に作り手を信頼させることだと考える。物語の運びに対して観客が安心してそれにノレるか否か。進む先の良し悪しとは別に観客が安心できるかどうかの基準があると思う。今作であればどんな争いを描くにしても、「最終的には平和的な解決に収まる」という選択肢が残されていることを示し続ける必要があったのではないか。作中の誰もが争いに盲目的になっていることに疑問に感じ、作り手が物語をどう導いていきたいかが最後まで汲み取れず、シュリがネイモアへの一撃を済んでのところで止めるその瞬間まで着地点が見えなかったことが非常に不安だった。ここまで感情が乗らなかったアクションは初めてかもしれない。(ネイモアの生身の身体に爪が食い込むのも見ていて痛々しい。背中を丸焦げにするのはちょっとやりすぎなんじゃ無いかとも思ってしまった。)私は、MCUは現実とフィクションをブレンドするのがうまいなと常々思っているが、それが逆にノイズに感じられたのが『ワカンダフォーエバー』と感じる。特に今回はティチャラ=チャドウィック・ボーズマンの死というのも描いており、観客の目線がだいぶ現実の方向に寄りすぎたのも原因の一つだとは思う。とにかく作中の誰もが悩みもがく姿をありありと見せられたことがとても苦しかった。
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今回の主役であるシュリは激動の中を生きている。国がどうとか王がどうとか死者があの世でどうとかそんなことよりも先に、兄を悼み、別れを惜しむという時間が彼女には必要だったはずだ。だからこそ兄を救えなかった自分を「焼き払いたい」ほど憎み、ネイモアによって母を殺され復讐に心を囚われてしまう。大事な存在を失った悲しみと折り合いをつけることができないまま戦いに巻き込まれていく様がとても切なかった。ハーブを飲んだ死後の世界ではまさかのキルモンガーと対峙(観客的には嬉しいサプライズだが)。従兄弟であり知性に長け伝統を嫌う点など確かにティチャラ以上に類似点が多い人物だと再確認。初めこそキルモンガーと同じく力を求めたシュリだが、悲しみを争いで拭うことはできないと悟り手を止めた彼女は『シビルウォー』でジモの自決を食い止めたティチャラと重なる。葛藤の中答えを見つけたシュリはあの時本当の意味でのブラックパンサーになれたのである。
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今作ではワカンダに立ちはだかる新たな脅威、ミュータントであるネイモアと彼が統治する海底国タロカンが登場する。人知れず栄えていた彼らの持つ文化や鮮やかな装飾はワカンダのそれと同様に美しいものだった。ククルカンの伝説を持つ王ネイモアは足首に羽が生えておりボクシングのスウェーイングの如く軽やかに空を舞う様は新しくかっこいいなと思う。陸海空を制し他者を寄せ付けないその強さはまさに神の名に等しい。他にもタロカン人の催眠術で人々を投身させたり、慈悲深くもありながら時に容赦の無い一面も見せる非道さなど恐怖を感じさせる造形はこれまでにない方向性だったと思う。(個人的に、誘拐されたシュリがネイモアにタロカンを案内される時に着用していた防具は恐らく序盤に登場したCIA研究員が着ていたそれだったように見えたのだが、そういう冷徹な姿がツボだった。)いまだにこうして新たなスタイルを見せられるMCUはすごい。
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チャドウィック・ボーズマンがこの世を去ったという事実を未だに信じられない自分がいる。大切な人が亡くなった時、残された者は何ができるのか。いや何をすれば良いというのか。そこにあるのは先立たれた悲しさと残された孤独感だけでは無いのか。誰もがみなその喪失に耐えられることはなく、心の傷が癒えるまで時間を要する者もいる。そうした者に対して他者の慰めや宗教的信仰などは一才の意味を成さず、結局のところ自分を癒すことができる或いは自分を変えることができるのは自分だけである。それは悲しいが事実であり、自分なりに向き合っていくことがただ一つの答えなのではないだろうか。主演俳優の不在という予期せぬ事態に直面し、作り手の誰もが混乱の中否応なく前に進まざるを得なかったはずだ。それはまさにブラックパンサー不在でありながら国外からの敵に立ち向かわなければならないワカンダ国民と重なる。その果てにあったのは、亡き者に対してただ真摯に向き合った姿勢であり、それこそがこの映画の全てだと考える。